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本質
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相関秩序
聖書の教えるところは、男性は女性との関連において、女性は男性との関連において生きなければなら沈いということである。その協力、その関係、その両極性においてのみ人間的である。これはまだ結婚について言っているのではなく、一般的な生活について言っているのである。結婚前においても、結婚しない人の生活においても、その秩序は妥当である。
異性が存在しないかのような生き方は常に罪である。また男性として、あるいは女性としての自己の本質を真面目に考えないのも罪であるゆ真の相違を平均しようとする平等主義も、単に相違のみを見て関係を見ない分離主義も、等しく書によって去さる聖書が男性を女性に優位せしめる一種の階層組織を認めていることは事実である。パウロはしばしば男性の女性に対する権力について述べている。しかし、パウロの思想を正しく理解するなら、これは相関秩序の破棄の問題ではなく、むしろその確立の問題である。
この男性の権力は専横な権力ではなく、神の前における特別な責任である。なぜなら、パウロは、男性は女性が男性に依存していると同じように女性に依存しているということを明らかにしているからである。言葉を換えていえば、男性の女性に対する権力は、性の相違、一例をあげれば、男匪の方が身体的に強いという事実に伴って与えられる責任以外の何物でもありえない。
またその権威は、暫定的なものに過ぎない、すなわち現世における現世のための秩序に過ぎない。キリストにあっては男も女も存在せず、神の国そのものには、もはや罪におちた世界の秩序を必要としない救われたもののみが存在するのである。
聖書の教えは、全体として実際にどういうことを意味しているのであろうか。聖書は、われわれが互いに孤立すること、すなわちわれわれの生活から異性の影響を排除することを望まないゆわれわれは異性によって完成される必要-聖書の表現に従えば、助けてもらう必要1があるこどを認めなければならない。異性の存在の権利を認め、それを快楽や搾取の対象と考えてはならない。
また、異性が自分とは異なる権利と義務を有することを認め、相手のために一方的に利用されることを強いてはならない。われわれは男性または女性に属していることに含まれる制約を受けいれなければならない(女性化した男性も男性化した女性も、等しく不合理である)。われわれの性の独特な任務を、われわれは受けいれなければならない。その任務とは、男性にあっては女性に対する相対的な権威であり、女性にあっては男性に対する助力となることである。
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